こんにちは。アラレです。
私が四柱推命を勉強することにしたのは、四柱推命が「占いの帝王で、最も的中率が高い占い」だって聞いたからなんですね。
でも、蓋を開けてみればたくさんの流派があるみたいで、どの流派の四柱推命を受けたか&占い師によっても鑑定結果が結構違うみたいで、混乱したのを覚えています。
そもそも、四柱推命ってなんなの?ってところを、実際に勉強してみて知った「歴史」の部分を今日は紐解いていこうと思います。
四柱推命ってなに?
この記事を読んでくれている人は四柱推命とは?っていうのはご存知だと思うのですが、簡単に言うと「最も的中率が高いと言われている東洋占術」のことです。
▼詳しく知りたい人はこちらの記事をどうぞ!
そもそもの始まりはいつ?
四柱推命は中国でできた占いです。
インターネットで調べると、「2000年前にできた占い」とか、「3000年前にできた占い」とかって色々情報が錯綜しています。
四柱推命が本格的に普及しだしたのは中国の「明」の時代と言われています(1368年〜1644年)
ただ、推命に使う「干支暦」ができたのはもっともっと古い時代なんじゃよ
干支暦ができたのは?
干支暦ができたのは「殷(いん)」王朝時代(紀元前17世紀ごろ)のことです。
よく
「中国四千年の歴史!」
って聞くけど、中国の歴史ができたのは今から4000年前の「夏(か)王朝」からです。
中国の歴史は
- 夏(か)王朝
- 殷(いん)王朝
- 周(しゅう)王朝
- 戦国時代
- 秦王朝
こういう流れを辿ります。
夏王朝から始まって、殷王朝になりました。
その、殷王朝の時にすでに干支暦があったんですね〜感慨深い…
漫画:キングダムは、戦国時代で、始皇帝になるために奮闘してますよね。このあたりの時代をモデルにした漫画です。
殷(いん)王朝について少し詳しく言うと
殷王朝は他のどの王朝よりも呪術・占いというものを重要視していたようで、”呪術王国を作り上げた”のが殷王朝とのことです。
それにそれに、殷王朝時代の王様の名前には例外なく「十干」が含まれていました。
(その後に始まる「周王朝」にはこの風習は受け継がれていません。)
この、殷王朝の王様の名前に使われる十干は、その王が生まれた日の十干が使われています。
殷時代は、生まれた日に出現している太陽には個別の「太陽神霊」が備わっていると信じられていました。
そして、その「太陽神霊」を王の名前に宿そうという理由で十干を名前に入れていました。
十干それぞれに10種類の「神霊」がいて、暦(干支暦)上で同じ十干が回ってきた時に、再びその太陽神霊が出現すると見立てられていました。
つまり
「十干・太陽神」としての「能力や才能」がその日に生まれた王子にも宿っていると信じられていたんですね〜
実は歴史は浅かった!
前述通り、殷王朝の後にできた「周王朝」時代には出生日を使った推命方法はすっかり姿を消してしまったんですね〜
その後、出生日をつかった推命方法が蘇るのは一番最初にも書いたように、「明時代」(1368年〜1644年)になるんですね〜
とは言え、いろんな説がありまして…
伝説上では、戦国時代(紀元前5世紀あたり)に占術家:鬼谷子(きこくし)が推命術を行ったと言う伝承もあります。
しかしこれは現存する文献記録がないため、歴史学上では疑問視されている説です。
そして、もしこの鬼谷子の伝説が本当であっても、それは生まれた日による推命ではなく、「生まれた年」での推命だとの説が有力です。
だから、四柱推命が殷王朝時代にできたと考えるなら、「3000年前にできた占い」と言っても間違いではないけど、「そのあとすぐ消えたよね…」ってなっちゃうわけです。
本当は「四柱推命は1000年くらいの歴史」があるというのが正しい考えなんですねー
余談ですが…
推命家の間では「徐子平(じょしへい)」という人物が有名です。
この人は四柱推命の産みの親とも言われてます。
子平って「徐子平」の名前から取られたんだよ〜
※徐子平の活躍した年代は五代(907〜960年)〜宗代(960〜1279年)ですが、明確な年代は不明
で、そのあと色々あって四柱推命学がちゃーんと編纂されたのが「明」の時代だったというわけです!
いつも短めのアラレの記事ですが、今日は頑張って色々書いてみました
この記事読んで、四柱推命って面白いなって思っていただけたら嬉しいです
ということで!
今日はここまで
アラレ